昭和44年03月18日 月次祭
信心は徹する事だと言われております。徹底する事なんです。それがどのように些細な事であっても、それがあの徹底されるという事はやはり見やすい事ではない。その気に、本気にならなければ出来ません。私はあの少年時代と言うのは、あれは幾つぐらいでしょうか覚えませんけれども、穀物の有難いという事を聞かせて頂いて、以来あのう穀物を大切にしてまいりました。どんなに自転車で走っておる時でも、前にこう道に穀物が麦でも米でもそれは大豆なんかでも、こぼれておる時には必ずそれを拾いました。
忙しい時には三粒ぐらいを頂いてポケットの中に入れた。だから何時もポケットの中に、麦やら米やらが入っておった。それはもうそのういわゆる何十年間それがおかげを頂いております。それはもう例えばどんなに忙しい時であってもそうです。私はそれであのう小学生の時に、運動場にこう石灰で白くこうやって線を入れますね。それのこぼれがその米に見えたんです。そんだもんですからもう慌てて拾ってから、もう運動着着とりますからそれを口に入れたところが、それが石灰だった事があった。
もう口中石灰であの何べん口をゆすいでも、気分が悪いといった様な事があったけれども、これはそれでもやはり続けて来た。やはりあの徹底するという事ですね。例えばあの思い方でもそうです。これはする事なす事だけじゃありません。思う事もやはり徹底した思い方と言うものが段々出来てまいりますと、そこからひとつの信念が生まれて参ります。そこからおかげが受けられます。例えばここではあのお月次祭前に、お祓いを致しますねぇ。ですから皆さんが例えせめて八時の御霊様の御礼が八時ですから。
八時にと思うて来よったけれども、そんならばあのお祓いだけには受けにゃ。お祓いだけには間に合わなきゃ。お祓いは受けさせて貰わなければという思い込みがですね、私は出来てきて始めて大祓いの時に大祓いを受ける。いわゆる霊験と言うものはそこから本当な確実なものになって来ると思うですね。私共が知らず知らずの家に侵しておる、お粗末御無礼と言うものがです、それこそあのシデのさやいきのさやさやのと、神風の音にも似たあの音を聞きながらお祓いを受ける事によって、心が清められるんだと。
今日のお粗末御無礼が許されるんだとその思いが。ですからあのお祓いだけは受けなければと、例えば走ってくるという、そのどうでもというその思いですね。そういう思いがね信念を作っていくだけではなくて、それが例えばほんなら大祓式なんかに大祓いを受ける。自動車が大祓いを受けて必ず無事故であると言う様な信念はね。そういうそのお祓いの事に信ずる力がなくて、大祓いの時のお祓いが効くもんですかね。どちらかと言うと先生の信念だけで、いくらかおかげを受けましょうけれども。
先生の信心信念だけではない。みんなが受ける方の信念がそのようにして培われていくのですよ。思いなんです。どうでしょうかねぇ。お月次祭にひとつお月次祭だけは、時間切っちゃならないと言う様な信心が、よし時間切ったならあのお祓いだけは受けなければとね。受けたからどうじゃないけれども、その受ける事がです本当にお祓いを受ける事だと信じられるという事がです。例えばほんなら大祓いの式の時に、お互いが自動車やらに身体やらにお祓いを受ける。
そん時にそのお祓いと言うのが本当な生きたはたらきをする元と言うものが、そういう思い込みの中から徹底した思い込みの中から生まれて来るのですよ。お祓いを受けても受けんでも同じ事、それに間に合う間に合わないは問題じゃない。そのくらいの思い方で如何に大祓式の時に、お祓いを受けたところでそれをね信心とは、それをそうと信ずる事なんだからね。だから大変な事なのでしょうが。神事とこう申します。神様事にはそういう深い意味が込められているのですよ。
皆さんそこんところをひとつ本気で分からせて貰うて、徹する事にですね努めなければいけません。信心は徹する事だと。これはもう昔聞いたお話ですけれども、こりゃどこの教会の先生か知りませんけれど、非常に親孝行な先生があった。初代のうちに非常にゴヒレイを頂かれたけれども、二代になってまぁ、非常に淋しくなったお広前が。とにかく御霊様にお縋りしなければと言うので、ただお縋りする拝むというだけじゃいけんと、こう気付かれた。
そこからね三度三度の食事の時に、必ず三度三度の御霊様へ対するところの、御膳部を作られた。それは場合の時には一汁一菜と言ったような御膳部もありましたでしょうねぇ。けども必ず三度三度のですね。その御膳部を作らせて貰うて、そして自分が召し上がると言う様な信心が十年続けられた時に、それこそ突然御霊様からお声がかかった。以来御霊様とお話し合いが出来るようになられたという話を、これは昔聞いた事がございます。はぁなるほどそうだろうとこう思います。
勿論それから続けられておる事でございましょうけれどもです。信心とは、それだと思うです。徹すると言う事なんです。これだけはと心に誓わせて頂いた事が、徹し抜かれるということ。信心は自分の都合でするのじゃない。自分の都合でいい加減にする。そんな事ではね、私は本当の信念が与えられないと思う。信念と言うのは自分で作るのじゃなく与えられるものですよやはり。そこに力強い安心の出来る生活が約束されるわけです。徹底すること。
昨日、十七日の御月次祭で、親教会におかげを頂きました。親先生の話がこのやっぱり徹底するという話であった。あそこはどこにあるでしょうかね。琵琶湖と言う湖がありますね。奈良県ですかね、あの琵琶湖の直ぐ近所にあります、何とかと言う教会名は忘れたですけれども、そこの先生が大正十五年から今日まで、御本部の御大祭という御大祭、お祭りというお祭りに、必ず琵琶湖の鯉をお供えし続けておられるという話でした。非常に御比礼の立たない教会だったそうです。
ところがある時の御大祭に、お参りさせてもらったところがね。あの時分は次から次と神饌があってました。ですからこう目の前を通る訳です。先生達の目の前を。中に一台空三宝が行きよる。鉢だけが乗っておる。なぁにも乗っておらん。それでそのその事を御本部の先生にお尋ねになった。いにゃありゃ空じゃないですよ。中には入っとりますよ、あれは岡山の何とか川の鮒がね、こんくらいばかりの鮒が五匹入ってる。だから小さいから鉢から見えなかった訳です。はぁそうですか。
この頃鯉が手に入らなかったから、いわば鮒にしよるという事であった。それが大正十五年であった。ある御大祭にお参りしてからそれに気付かれてから、はぁ自分はその琵琶湖のそばにある教会である。琵琶湖には一つ有名な大きな鯉が、その目の下何尺といった様な鯉が取れるのが有名である。その琵琶湖の鯉のいわば産地とでも申しましょうか。鯉で有名なそのうおかげを頂いておる自分が、これはどうでもこうでも御大祭には、鯉のお供えをさせて頂こうという事を、早速そのまま三代金光様にお届けされた。
これからの御大祭には琵琶湖から、琵琶湖の鯉を必ずお供えさせて頂きたいと思いますから、どうぞお許しを頂きますようにと言うてお届けさせて頂いたら、金光様が大変お喜びになったという事です。三代金光様が大正十五年ですから。以来ですね例えば春秋の大祭だけでももう八回ありますよね。四回づつありますから。それにあの夏の御大祭夏の大祭。それから報徳祭これはもう一日。ですから八回十回になります。その十回を度々に、その大きな桶を作られましてね。
あのいわゆる信者総代が交代でお参りをするそうです。その時の御大祭の前日に、金光に着くようにしてお参りをしてそれをお供えした。あちらのほうは水槽に入れません。こう絞ってからですから、随分大きな鯉でないとそのいけんのです。それが始めの間はね有り難く出来たんですけれども、戦時中にはいよいよ泣きましたという話を、壮年教師会でそこの先生が見えておられる、その話からじきじきに聞いたと言うて、昨日親先生が話して下さいました。
それはもう窓から入る荷物に荷物が重なっておるという時なんかはですね。その水の大きな桶を入れるもんですから、もうそれこそもう一緒に乗っておる、その汽車に乗っておる人達がですね、こういう時にこげなんば、もうそっから窓から捨てろち言うてから、言われたことも何回かあった。もう本当に止めようかと思う様な事が、何回かあの戦時中にありましたけれども。戦後でも同じこと。けれどもこれだけはお許しを頂いて、神様におすがりし抜かせて頂いて、今日まで続いておりますというお話でした。
親先生もあのうあちらに開教にお参りになった時に、その教会に寄られたそうですが、もう、大変な隆々とした御比礼を頂いておられるという事です。それが四十何年間続けられておる。本当にですね徹底するという事。だから中身のその信心という事はともかくとしてもです。そう言う様な事が徹底されるという事だけでも、おかげを受けておるんですからね。私は少年時代から穀物と見たら、必ずそこを通り過ぎる事は出来なかった。必ず押し頂いて拾った。
忙しい時にはその米が一杯こぼれているなら、三粒だけでも拾うた。それがほんなら今日まで続けられておる。その徹するという事。御霊様とお話しが出来るようになったという先生がです。十年目に初めてそういう事を期待してからでもなかろうけれども、突然御霊様からお声がかかり、それ以来御霊様とのお話しが出来るようになられた。三度三度のお食事いわゆる御膳部のお供えをなさった。そこにその通うものが生れる。そういう徹底するという事信心とはね。
それは但し形の事ですね。形の事でもそれが徹底しぬかれておる。もう止めようと思うような時でも、それに徹しておられるというところにですね。その教会の御比礼がその先生のご霊徳がありね、と言う様な事から思わせて頂きましても、同時に思うという事でも、それを徹底した思い方。お祓いを受けると受けないという事は、例えばどのように違うかと。いや違うんだと信念する事。ですから御月次祭のお祓いが済んでからどん参ったっちゃ、もうお参りが半分になるぐらいな気持ちでです。
徹底した私はあのいうなら時間励行ですかね。そういう例えばお祓いがお祓いとしての、値打ちを信じられるようになって、初めて大祓式の時のお互いが自動車なら自動車を祓うて貰う、大祓式にお祓いを受けておる、おかげを頂けれるという信念がですね。培われ又はそれが与えられるのです。信心という事は徹底する事なんです。そこでです私共は日々頂いておる、その御教えの徹底という事になりましょうか。御教えに徹するという事になったら、これはどういう事になるでしょうかね。
勿論おかげを頂く事は勿論、もうこれならばいよいよ間違いなく御神徳が受けられると私は確信いたします。形の事ですらおかげを受けておるし、またお徳を受けてござるとも言える程しのおかげが、徹底と言うところから生れておるのでございますからね。形ではなくて内容の上にです、心の上にですそれが徹底される。教えが頂けれる。お祭り前に秋永先生と話し合った事、話し合ったって、まぁ話し合った事でございますけれども。今の佐田さんのお話を頂いてから感心した。素晴らしい。
咄嗟にお話をせろと言われてあれだけの話しが出来て、しかもあれだけ内容のある信心の話しが出来ると。頭も良うありなさろうけれども、あれだけ徹底した信心が出来なさるから、内容があるからあれが出来るんだと言うて秋永先生が言うております。私もそうだと思います。徹底されたところからですね。もういつでも内容はあるです必ず。それが信心のおかげなんです。恵介君ですね小学校一年生の恵介君が、あの寒修行以来今日まで朝参りを続けておるということからです。
人からその事がまぁ批判的に話された時に、その事からですね。金光様のおかげとはと言う話になり、そして私がおかげを受けておる、この事実をあなた方は見ておられるから分かるでしょうと。そこにそのう金光教の信心を見事に浮き彫りしたお話でした。そうだ金光様のご信心とはそれなんです。結果じゃない。結果が右とか左とかという事じゃないんだと。そこにいわば佐田さんの徹底した信心があり、またそれを伺う事が出来ました。秋永先生は共励殿で聞いておったんでしょう。
本当にもう感心したと言うてから話しておる。あぁいう信心をしておるなら先生、絶対間違いがないでしょうねと言うてから言うております。お互いがね間違いのない信心をいただかにゃつまらんです。ちょっとどうかすりゃもう迷う。ちょっと突かれりゃもうへこたれるといった様な事では、今日私が申します徹するという事が出来ない。徹底するという事。そこでね私共がこれだけは徹底したい。今朝からの御理解です。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよと仰られる。
道理に合う信心に徹底しなければいけません。徹底した私は信心道理に合う信心。道理に徹底していかなければいけない。道理に合わない信心が世の中には沢山あります。どんなに考えてもね。そう言う様な事があるもんかとね。例えて言うならば日柄方位を言うたりね、日の良しあしを言うたりするのは、これはもういよいよ迷信である事は分かってるんですけれども、さぁ今その大学の何々教授と言った様な人達でも、さぁ娘がほんなら嫁入る息子が嫁御を貰う、また自分方に普請をするというと先ず家相を見て貰う。
また黄道吉日を選んで結婚式をする。もう可笑しな事ですよね。神様がござるのござらんのと言った様な事を、平気で言っておる学者なら学者の人達がですよ。文化人と称する人達がですよ。そういう愚にもつかない様な事を信じて、それに惑わされておる。またそういう事を看板にしておる宗教すらあるという事。あなたのとこにはかまどの位置が悪か。秋永先生の所の向かいに、原田さんと言う方がある。普請をされた。ところがそのお爺さんが具合が悪うなった。それであるところに参らっしゃった。
そしたらあなたの所はかまどの位置が悪か。私が来てからお祓いをしてやろう。お祓いをしなさったばってんいかじゃった。そりけんここんにき何かいかっとるじゃろうか。ここにこれば掘り上げたなら良かろう。さぁ掘る事もそれこそ井戸掘るごと水が出るごと掘ったわけ。なぁにん無かった。何か瓦んごたるとの出てきたら、はぁこれこれち言うちからその当人さんが言うちから、その瓦んごたるとば上げて、もうこれを掘り上げたけんで、もう大丈夫ち言わっしゃった。そればってん良うならっしゃれじゃった。
そしたらこらやっぱどうでんこうでん、こんかまどの位置が悪かけんかまどばいっちょ、位置を変えなさらんといかんと言うてです。入ってから行き当たりにかまどがあった。これもいわば蹴込みかまどち言うてからね、一番家相に悪か。それでもう出来たばっかりの、タイル張りのきちっとしとるとば、わざわざ退けてから横さんやんなさった。ちょうど私秋永先生ところへお話、ちょうど時分だったと思いますから、それから合楽に見えました。もう大体は善導寺の親教会のご信者さんです。
金光様の信心しよってもそんなにね、あれこれ迷うごたる信心じゃつまらんです。それで私がねそのあのそれがもう、とても使い勝手が悪いげなもん。あただにやったっじゃもん。そるけん私が元の所に直しゃおかげ頂くですよち私が言いました。はっははそるけんまぁ当人さんがあげん言うてあるとに、大丈夫でっしょうかち言うてから。大丈夫て使い勝手の良かところさんやりなさい。そしたら元の所へやり直す。また沢山の金をかけてから、元の所へし直しなさいました。
おかげでお爺ちゃんな元気になられました。そらもうとても大変お強い方私の父と友達ぐらいなね。だからそういう様な事を言うのは、どんなに考えても道理には皆さん合わないでしょうが。結婚式に日を選ぶとかね。普請をするとに家相を見てもらうとか。それこそ指一本で押すだけでも、天地金乃神の御比礼に漏れるところはないと仰る。お徳に漏れるとこはないと仰る。それをこの土地は良いの悪いの、この日が良いのこりゃ悪日であるのと言う様な事はいけんて。
それから高芝さんところのお婆ちゃんが亡くなられた時が、ちょうど友引だった。それで友引だからと言うて親戚が信心がないから、電報打ってからねその次の日にする事に電報打ってあった。そしてお届けに見えた。それで私が高芝さんに申しました。そら元に戻しなさいち言うた。昔はあんな事が私は平気で言えよったんです。この頃はそんな事がいんごとなった。もうおとなしゅうなった人間が。もういけんならいけん。もうそれこそあの時分に怒られた人達は、やっぱり今でも信心が続いてますよその代わり。
ほらもう折角近所じゃないその親戚にまで、電報打って知らせておるのを、また改めて電報打ってからその翌日にお葬式をする事になった。友引の日であった。おかげを頂いておるでしょうが。後に友も何も引きはせんどころか、明くる日だったらてんでもう土砂降りでした。例えばそういう一事から見てもです。如何に道理に合う信心というものを、身に着けておかなければ、いよいよの時に迷うかという事。その迷うだけなら良いです。土砂降りに濡れる様な事なら良いです。
使い勝手が悪うなってからいわばタイル張りの、そのかまどを横さんやるぐらいのことなら良いですけれども。その事が天地の機感に叶わんと仰るのですから。その事がめぐりを作る元だとね。天地に無礼致し前々のめぐりで難を受けおると言う。もう本当にその難の元をそのようにして作っておるのですよ。大変な事でしょうが。そういう意味で何時も、このう道理に合う信心という事を説き明かされて参りましたですね、ここではところが今日は少し違った意味合いで頂いた。
今日はそういう事に徹してもらいたいと思うのです。あれはあの古事記ですかね。古事記に私は言葉は良くは知りませんけれども。「なりなりてなりあまり、なりたらざる」とか何かという様な言葉がありましょう。男と女の事です。男はち多すぎるとか。女は引っ込み過ぎっとるち言う。これはもうそれこそ天地悠久の昔からね、この道理だけはねもう何時になっても、どんなにその世の中が開けてまいりましても、この道理だけは狂わんのです。男が赤ちゃんを生むと言う様な事は出来ん。
なり余るものとなり足らざる者が、一緒にならなければ出来んのである。拝み合わなければ。そこんところを教祖の神様はです。あいよかけよとこう言うておられる。男だけでは出来ん女だけでも出来ない事がある。そこにあいよかけよと言われる。ですから例えば家の家内はどうもあぁいう欠点がある。家の主人はこう言うところに足りない所がある。そこをお互いが責め合わずにそれを責め合わずにです。これを責め合う事は今朝の御理解で頂くと、道理にだから合わない信心なんです。
主人の足りないところは私が家内の足りないところは、私が信心をさせて頂きますから、そこに始めて拝み合う事が出来るのである。主人が出来ませんから信心が出来ますという事になって来る。これは夫婦だけの事じゃない。親子の場合でもそう。子供が不信心でございますからね。その例えば子供の足りないところを親が補うていき、親の足りないところを子供が補うていくという生き方。道理に合う信心天地陰陽の道理に合う信心、天地自然の法則に叶うた生活。
それはどういう事かというと一切のものと合掌しあう、拝み合うという事。親の事は子が願い子の事は親が願いあいよかけよでね。願い合い致せとこう仰せられる。天地の如しとも言うておられる。その天地の如しという事が道理なんです。そういうあり方にならせて貰わなければならんのです。だから責め合うという事は、だからもう既に道理に合わん信心をしておるのであるという事が分かる。そこの道理が分かっていないのだ。だからそこの道理が分からせて頂く。
この事はねもっと具体的に今朝の御理解に説いてありますから、お頂きになられるといいですがです。せめて例えば夫婦の者が親子の者がです。不平不足を言い合うのじゃない、責め合うのじゃない。足りないもの同志がですね一緒になって、そこから本当のまとものものが生れてくるという。そういう道理にあった信心をです、させて頂くところから、もうこれならば絶対これに徹するならば絶対、神様のご信用であるところの御神徳が受けられる事は間違いない。おかげの受けられる事もまた絶対である。
絶対の信、一切が神愛と頂くと言った様な事にですね徹すると言う事。絶対愛を信ずる。そういう信心もその様な体験から生まれて来る。例えば佐田さんがです。私がここに立ってお話をされたのは、佐田さんの話を初めて聞いた。そう雄弁でもおありにならんと思うておった。ところがどうしてどうして、今日のお話を頂いておったら、言いたい事を十分に表現しておられる。何故それがね日頃の徹底した信心から、あの話しが出来たという事はどういう事かというとですね。
そういう徹底した信心から、そのようなおかげ今日も、私佐田さんのお届けの中に、初めて聞いたお届けの言葉があった。先生十日の御月次祭からこの十八日の御月次祭の間に、限りのないおかげを頂きまして、月次祭から月次祭までの間の御礼のお届けがございました。そういう徹底した信心からです。あの様な事が言えれるのです、咄嗟にあるのだから。日々そういう体験を受けておられるのであるから。しかもそれを確信をもって信心のない人にでも、金光様の信心を見事にお話しが出来ておられるです。
こういうところをですね、これはその人の真似と言う訳には出来ませんけれども、それぞれがです。お互いひとつ徹底した信心。今日は形の事に徹底させて頂いても、おかげが受けられるお徳が受けられると言う話を前に致しましたがね。発心徹底するしかも私共人間が生きていく上に、一番幸せの元と言うのは全ての事に拝み合えれるという事。全てのことがね、拝んで受けられるという事。
それは難しい時もあろうけれども、そこをです私は足りないところを詫びていく気持ちで、それを合掌して受けていく合掌し合うていくという生活。この様な素晴らしい道理に合うた信心は、もう又と無かろうと私はそう今日は確信致しました。どうぞひとつ信心は徹することなのだ。これはと思うたらひとつどうでもその事を徹し抜かせて頂くという信心から、いわゆる信念が生まれてくる。それを力とも言う。その力が光になり徳にならない筈が無いのですからね。
どうぞ。